猿、行川、窓辺にて。

 

最近メンタルが不調です。

嘘です。そういうポーズです。(開始二行手の平返し)周りの人が楽しめているものが自分はイマイチ楽しめなかったり、しかし表面上だけでも無理に合わせようとしたり、ともあれそういう些細なズレを感じる場面が積もり積もって少し疲れていました。

消費社会、疲れました。

カラオケだったり飲み会だったり企画されたイベントに行ったり、用意された”はいどうぞ楽しんで!”を楽しむ余裕が速攻で底を尽きるようになりました。いろんな話に対して、空元気を出すのに疲れてしまいました。たまにならいいですが、連続するとバッテリーがすぐ切れるようになりました。誘っていただけるのはこれ程なく有り難いことというのは重々承知しているのですが、昔はなまじ自分の機嫌や感情の配分などを上手く乗りこなしたり躱せていた分、それが年々できなくなっている自分に対してのショックが大きい気がしています。

因みに身近な人に↑これを相談したところ、「『空元気を出すのに疲れた』ってフレーズ普通言わんのよ。『元気を出すのに疲れた』って普通言うのよ。『空元気』って言葉が出てくる時点で自分を俯瞰してんよ。一個メタ階層多いんよ」って言われて図星すぎて爆笑しました。

うるせぇーーーッ!!!ああつまんねつまんね!!こんな尿漏れみたいにしみったれた話つまんねえんだよ!!長ぇんだよ前置き!!っつーわけで、そんなウダツの上がんねェ中これだよこれぇッ!これでこそ地に足ついてる感覚するぜぇーッ!!っつーような英気が回復するような己の内から生きる希望が湧いてくるような近況の”好き”を𝓚𝓲𝓼𝓼……

 

サル・バラ

 

猿です。多分

サル・バラ。メキシコのカルテル、サル・バラ。

クールー病とかクロイツフェルト・ヤコブ病とかあったら怖いですね。脳とか骨の近くの神経系がヤバいとか諸説あります。よくわかっていません。よくわかっていないので食います。昔の中国でやってたらしい猿の脳をスプーンで食う奴は確実にヤバそうです。でもこれは火入れてるんで大丈夫です。『華氏451度』にも書いてありました。火って全部解決してくれるらしいっす。多分探せば古事記とかにも書いてある。そりでゎ、この世の全ての食材に感謝を込めて、いただきます。

不味いっす。油が臭い、というか、無味です。無味無臭って多分「臭い」に変換されるんだと思います。魯山人は美味いとか言ってたらしいがあいつ話盛ってます。肉を取って来てくれた友人の知人曰く、バラよりモモの方が美味いらしいです。あと塩基配列の98%が我々と一緒なので栄養の吸収が早いらしいです。それは絶対嘘だろ。菌とかもいるんでしょうか、祖父母の友人に川から採ってきた鯉を刺身で(!)食べる人がいるんですが、前に聞いた話によるとその人も曰く「焼酎飲んで腹の中で殺菌してるから大丈夫」らしいです。猿肉について少しggったところ、焼きより鍋の方が油が出汁に溶けて美味いとか。まだワンチャンある。夢がひろがりんぐ。脂肪が霊長類らしいビビットな黄色でグロいですが、まさかのこいつの旨味(うまあじ)が焼きか煮かで運命を分けていたっぽいですね。次回(があれば)挑戦。

我々は無意識の内に「美味しい」のボーダーラインに立ってるものを最低限のクリア水準として設定していたようです。贅沢ですね。普段食っている家畜が如何に美味しいものか分かりました。Linux使ったら普段使ってるWindowsが如何に便利かわかるみたいなやつです。猿はLinuxでした。皆さん猿を食べるかLinuxを触るかした方が良いです。普段享受しているものが如何に幸せか一回噛み締めてみてください。塩基配列が98%一緒な油が舌の上に広がります。

 

結論:猿=Linux

 

いかがでしたか?

今回はこういう結論となりました。まさか猿がLinuxだったとは驚きましたよね!みなさんも驚いたことかと思います。このブログがよかったなって思った人は高評価とチャンネル登録とアドセンスクリックお願いします!

 

  • 行川

三月某日、はじめに話した飲み会だったりで私の心は疲弊していました。

一人の時間が必要でした。陰鬱に本を読む時間や現状を打破する破壊願望を仮初に肯定する時間が必要でした。一人の時間が必要ってことは人のいないところに行けばいいんじゃないかな。行川アイランド駅はC葉県内で最も乗客数の少ない駅だそうです。房総半島の西南端に降り立つ。

行川アイランド

碧い海と出会いの里——南房総 かつうら

東方200M(小数点作品)に行けばあります、奴が。奴が、あります。完成しましたカオスボム。

券売機たち

 

紛うことなき入口

ひぐらしのタイトル

ひぐらしのタイトル画面みたいな構図に図らずしてなった。てかひぐらしも普通に巡礼してる。ちなw 異端か?w ゎら

不法投棄の山

不法投棄の山。急な斜面を登って振り返った時の写真。

ふと気が付いたのは、時間がここには存在しない。廃材、ゴミ、時代のバラバラな全てが同じ場所にとどまっている。子供の頃、もしかしたらCMで見たかもしれない飲料のラベル、VHS、CD、私が産まれる前に流通していたおもちゃ。無造作に掻き分けられた情報の中に規則性や類似性を見出そうとするが、半秒も経たないうちにそれが無駄なことを認める。木が腐っていて踏むと何の抵抗もなく割れる。生命の寝床となった自然素材は侵入者の跫音とともに割れる。

!!

カバくん!カバくんじゃないか!!急斜面を上っていくと例のカバくんがいました。

木陰から現れるピンクのカバくんは今だ健在でした。相変わらず上半と下半が両断されていますが、鼻先にコーラの差入まで貰っていてまあ元気そうです。「ピンクのゾウ」って表現ありますよね。薬物中毒者がよく共通してみる幻覚の寓意像。ピンクのカバくんが入口にいるのはなんだかこれから幻覚の世界へといざなう案内人としての役割なんじゃないかという気がしてきます。カバくんの横には続くトンネル。

怖くなったので帰りました 嫌な気分になりました

蛙が鳴いたので急ぎました 走ったら転びました

通路。剥き出しの配線は、かつては照明へと繋がっていたのでしょうか。昼なら差し込む光でまだ見える範疇ですが、それでも暗いです。スマホの光量だと心細い。後に思うのですが、ここはかつて職員用の通路だったんじゃないでしょうか。あまりに裏道というか、晴れ晴れとしていない道。

トンネルを抜けた先

ときには振り返ることも必要だ

ベンチ

海が見える。

職員用の通路?を抜けた先には海が広がっています。山登ったりトンネル潜ったり職員に課せられる難易度高ぇ~ここは職員が退園するまえにベンチに座って海を見ながら一休みしたスペースなのでしょうか。いや、ベンチが新しすぎるでしょうか。

新品の紐

新品の紐が張ってあった近くに獣道……というか、明らかに人間の踏み均した路がありました。そこを慎重に五歩ほど進んで身を乗り出すと、崖。藪の一寸先は崖。普通に地盤が滑落したら死にます。ベアトリーチェだって2578917分の2578916の確率で死にます。紐張ってくれた人、ごめんね。

一本道

灰皿?

灰皿、でしょうか。芽吹いてますね。
2001年閉園とのことなので、まだ時代ですね。喫煙室を秘匿する必要もありません。

開けた場所に出た

壊れたタイル

光のあまり差さない、木々に囲まれ細まった道を抜けると開けた場所に出ました。ここからようやく来場者に見せられそうな雰囲気をギリ残しています。今となっては大半のものが自然に帰され、その線引きも無いものだと思っていましたが、タイルだったり装飾だったり光が差す場所の計算だったり、案外雰囲気で変わり、同時に分かるものですね。テーマパークに来たみたいだぜ テンションあがるなぁ~

発電室?

なにか、いる

なんて、霊感なんてないです。

倒壊した桜

傍には倒壊した桜。庭師は疾うに韜晦しています。

そういえば花見の季節でした。来週には桜前線満開なんですってね。根こそぎ倒れているくせに、花を咲かせています。果たして何から栄養を吸っている、どんな機構なんでしょう。

山を抜けるトンネルが多い

続く道

ぐるっと緩やかなカーブを描いて道が続きます。ここら辺で気付きます。なまうん(生うんち)めっちゃ落ちてる。たまごっちかってくらいなまうん落ちてる。道のど真ん中にできたてのしっとりしたなまうんが白昼堂々めっちゃ落ちてるが、そこが"道のど真ん中"であるかどうかを決めたのは我々人間だ。うんプロ(うんちのプロ)では無いのでなんの動物のモノかはわかりませんが、生半可な大きさではないので猪を想像して怖かったです。そして、かつてこのアイランドではキョンを飼育していて、それが脱走したことにより現在もC葉県にキョンが25000頭くらいのさばる原因となったというシナリオでも有名です。

抜け穴にたい焼き

通路が基本山沿いにあるのですが、山を貫通するように抜け穴が沢山作られています。園内の何処かに繋がるショートカット?のようです。営業当時もこれを通路として使っていたのでしょうか。それにしては作りが無骨なような気がしてならないような、そんなものが乱立しています。一部の穴には何かモノが廃棄されていますが、これは近付いてみたところたい焼きを焼く機械のようです。鋳型が魚の形をしていました。見渡す限り売店っぽい骨組みは一切ありませんが、昔はしっかりと居場所があったのでしょう。

正門

正門です。この先はバリケードを越えて封鎖された駐車場へと繋がっています。外界の景色が一瞬だけ見える、現代の車の走る音が聞こえる、唯一のエリアです。最初に入ってきたエリアが正門じゃないっていいですよね。ダークソウルで栄華を極めたアノール・ロンドが、続編のダークソウル3にて凋落した姿で登場したのを思い出します。”正門”なんて勝手に決めたのは、我々人間ですから。

またも洞窟通路

天蓋を突き破って自生する爆発した紫陽花

獣捕獲用の新しい罠

何かの何か

コンクリの上にゴム

崩落した拡声

紐の途切れ

歩いているとだんだんその場に慣れてきて、ここが廃墟だということを忘れます。雨が降り始めましたが、優雅に傘を差して散歩も余裕だったと感じてきます。紐の途切れ。ふと、目に入ったこれが私を現実に引き戻しました。安全とそれ以外の境界線。それが破断されている。普段であれば紐は途切れることなく我々の侵入を阻む仕事を全うしてくれるが、ここではそんなことはない。スピリチュアル風、もしくはデス・ストランディング風にいうと人類が初めに使った道具は棒と縄らしい。縄は境界を作ることができる。我々に巣食う"常識"の中にまぎれる異界。安全が担保された世界の方を常識と思い込み、況やそれをふんだんに享受する権利が当たり前にあると思う程度には我々は既に飼い慣らされている。目の前には先程の”何かの何か”。恐らくはかつて動物が飼育されていた今や奔放な檻。
人間に虐待され精神を病んだ熊の動画を見たことがある。その熊は自然に帰されたものの、その自然下でなお自分の体積を一回り上まわるくらいの空間をずっと同じ位置でぐるぐると回っていた。自然界では絶対に発生しないような轍が綺麗な真四角を描いてその足元に付いていた。気が付けば先程より増している鳴禽の鶯、獣の気配、木を折る音、雨がそれらの上から覆いかぶさる。

高台の広場

山に奥まった行き止まり。上って来た高台には広場がありました。奥にはポールが数本立っている。ここにネットをかけて球技でもできたのでしょうか。それにしては少し範囲が小さいか。ショーなどをするステージのような気もします。下には風化されつくした人工芝。時間を経て自然の雑草に浸蝕されている。向こう側に猪やキョンの親子の姿が見える。警戒しながら来た道を引き返す。

鋭利な切断面の木

続く向こう側に海

休憩所、猛禽、椿

プール

プールに出ました。これが今となっては一番の”映えスポット”です。一枚の写真に泥濘、プール、海、曇天と、何やら図らずして示唆的にも見えます。色錆びた建材と曇天とが相まって面白いくらいに色調が暗澹としています。この条件下雨は危険ですが、この景色を見られたため僥倖と感じます。

柵の下側

すのこが きえるんだ

道を下ってきた柵の死角となるところ、プールの手前には下に続く階段がありました。なるほどここはトイレ兼更衣室のようです。後述する外にあった”目洗う奴”を見るまでは何の施設なのか気付きませんでした。もう今やないですよね。意味無いらしいです。こういう存在した年代が限られるものがあると年代特定が楽で楽しいです。足元には”すのこ”があります。通路は光が差し込むところ以外はライトがないと前が見えない。死角になったスペースには水没した女子シャワールームがありました。

”目洗う奴”

展望

倉庫

気を付けないとこういったハッチの外された穴が無害な顔して平然とあります。亜空間の罠。脚を滑らせたらドボンです。電波のピンは0です。お前は圏外だ。破断した塩ビ、外された梯子、水没した電気設備系統。

子供用

横に逸れたら子供用の浅いプール。滑り台つき。中には大量のオタマジャクシがいます。夏にはボウフラがヤバそう。近寄りたくないですね。因みにボウフラって”孑孑”って書きます。”げっきょう”とも読めます。見た目は双子っぽいですよね。血を吸う双子。495年の恋も冷める。

メイン施設っぽいです。見渡しがいい。

半地下の入口

古い洗濯機

大きい機械

テレビ、黒電話、ロッカー

従業員用のスペースのようです。せんたっき(なぜか変換できる)。さんかっけい(なぜか変換できる)。レガシーコンテンツがいっぱい。

電源関係。写真で見るとまだ明るいですが、実際はとても暗い。
「5L3 ボイラー」「5L2 プール」「5P3 ゴンドラ」「5P2 エレベーター」

「SL4 SOG」「5L1 ホテル」「5P1 ホテル 空調機」と書いてある。

ゴンドラ、ホテル、そんなものがかつてあったのでしょうか。ヒューズが抜けに抜けまくっています。バイオハザードだったら大惨事ですね。

半地下を引き戻して建物の屋上へ出ます。この時に人の話し声が聞こえました。後にも先にもこの場所だけでしか聞こえなかったんですが、40~50代男性の声が4回程風に乗って聞こえた気がします。幻聴だと結論付けて屋上を通り、先へ向かう。

銃口を自らの頭に向けスマホでこちらを撮影している

また抜け穴

アンジャナフおる?

上へ向かい、おそらく今回で最高の標高に来ましたが謎の建物とアンジャナフの痕跡があるだけで目ぼしいものは何もありませんでした。モンハンワイルズ、発売楽しみですね。25000頭くらい繁殖しないことを祈りつつ、来た道を引き返す。

縦ver.

上から見るここからの景色が一番琴線に触れたかもしれません。

曇天と藪、とても好きな風景です。あんまり人の立ち入れる海岸で断崖って無かったんじゃないかと思います。大体ビーチとか浜になっているので。とかく崖は管理も難しそうで危険なのでしょうか。ともあれこのロケーションを以てしても廃園へと追い込まれてしまったわけです。

ガラージュというもれなく良いゲームがあるのですが、ゲーム内でこういった風景が映るシーンがあり、それが今思い起こされたくらいには印象に残っています。曇りって、晴れでも雨でもなく中途半端であるからこそこれから何かが起こりうる、何かの”予兆”という心象イメージが強いです。それでいて劇的にわかりやすい変化なんてものは現実に近ければ近いほど訪れないものなので、その真綿で首を絞めるような閉鎖感、緊張感、精彩を欠いた感じも含めて好きです。カラオケルームより幾分も色彩が無いこの場に二時間立ち尽くしていた方が遥かに得るものは多そうだと、ふと思います。

写真奥に続くまだ見ぬ通路に向かいます。

動物園エリアっぽい

表題『』

形骸

サウンドボルテックス

キョン!を撮るわよ!

動物園エリアっぽいです。鳥やキョンで有名だった過去があるので、昔はここらへんにまとまって収容されていたのかもしれません。野生化したキョンの親子がこの区画の一部にいました。探せば巣があるかもしれません。こちらを察知するや否や爆速で逃げるため残念ながらAnimal Videoは撮れず。撮れないのであれば実在しないのと同じなのかもしれないな。

”ない”のに”ある”階段

散らばった獣骨

また少しいくと海岸側に開けた謎のスペース。もう階段はないのに、かつて階段があったことは分かる。こういった直接描かずして描いている技法(?)、好きです。パズルの1ピースだけ埋まってないんです。でも、その1ピースが”何か”というのは周りのものが輪郭を教えてくれるので、はっきりと解ります。
しかし具現としての階段がない以上我々は足を付けることは出来ません。したがって、階下に降りられません。見辛いですが、下にはグラフィティアートの他に散ばった獣骨がありました。最初はロケーションも相まって白プラスチックのビーチにありがちな風化してバキバキ折れるあの椅子かと思いましたが、歯がずらっと並んでいました。臼歯みたいな平坦な歯だったので持ち主は草食、キョンでしょうか。

また

埋没した横道

アリスみたいな気分

特に目ぼしいものもなくトンネルを抜けると先程の人工芝のエリアに出ました。
凡そ見たのでそろそろ退散します。噂によるとエロ本に塗れたアトリエもあると聞いたのですが、見つけられず。どうやら入場するときに乱数調整をミスって出現しなかったようです。

防空壕

打ち棄てられたトラック


このアイランド、戦時中に使っていた防空壕も残っているといいます。明らかに舗装されていない岩窟を見てそれを思い出しました。腐ってもテーマパークにそんなものを剥き出しで残しておく(もしくは今まで通ってきた通路の中にあった?)なんて、今じゃ考えらんないね(B-DASH)。

帰ろう。光と色彩が織成すくだらないカラオケルームが私を待っている。

正門に至る通路の装飾

顧眄する竄入

目を瞑って願いを想えば、それはきっと叶う。鉄柵という障害物はただ外と内とを分けているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。

 

  • 窓辺にて

火曜日

書くことは何もない。存在した。

『嘔吐』に学ぶ(過去の清算が4000円安くなるクーポン券つき)

  • 言い訳

次に出す本の原稿の殆どが書き終わった。

こういうときによく面白いことが起こる。殆ど書き終わったあとに、書いたものと同じ方向性の雰囲気を醸し出す本に巡り合えることだった。

Aの要素を含んだ本を読んだからAの要素を含んだ本を書き始めるのではなく、Aの要素を含んだ本を書いていたらたまたま読んでいた本の中のAに出会うのだ。しかしこれはAを傍受するアンテナが拡大している状態(書くことによりAに対する解像度が上がっていて、Aを事細かに書けるよう材料を探している状態)ともいえるのだから、そういう意味では必然でもあった。

 

J-P・サルトルの『嘔吐』を読んでいる。

サルトルが提唱する実存主義と言われるものが通念した小説『嘔吐』である。個人的に、小説という虚構媒体にして、謂わば自らの思想を作品調にするのがかっけえくて魅力に感じ、興味を持ちました(面接)。自分の二次創作だ。

 

ここで初めに話を戻し、この『嘔吐』の中で出会った好きな表現を紹介する。

そして最後に、まるで魔法にかかったように、パロタンに一歩一歩ついてきた迷える子羊は、すっかり迷いから醒めて、改悟しながら古巣に戻って行く。
(中略)レミ・パロタンは愛想よく私に微笑みかけていた。彼はためらっていた。私の立場を理解して、おもむろに方向を逆転させ、私を羊小屋に連れ戻そうとしていた。しかし、私は彼を恐れない。私は子羊ではないのだ。(J-P・サルトル著/鈴木道彦訳, (2010).『嘔吐』, 人文書院, p.148)

私はこの限りないけだるさの奥底で、息の詰まる思いだった。それから不意に公園は、大きな穴が開いたように空っぽになった。世界も、やって来たときと同じように消え去った。あるいは私は目を醒ましたのだ――いずれにしても、世界はもう見えなかった。私の周囲には黄色の土が残っていて、そこから空中に何本も枯れた枝が突っ立っていた。(J-P・サルトル著/鈴木道彦訳, (2010).『嘔吐』, 人文書院, p.224)

 

この文たちの好きなところは、自分で勝手に深読みしてんのに急に梯子降ろすところだ。

自分を「子羊」だと比喩したあとに、私は子羊ではないのだ。といきなり梯子を降ろす。まあ人間だし。という当たり前のツッコミと、私は従順にはならない。という意味の綺麗なダブルミーニング

下の文では公園に行って林立する木々の放つ情報量に圧倒されてきもちわるくなっちゃう(かわいい)シーンなのだが、急にスン……って普通の公園の情景を感じるように戻る。なんなら自分で「目を醒ました」って言っちゃってるし。言うな。陶酔しろ。

 

この技法好き。結構お約束のパターンではあるので、何か修辞として確立されていそうなものだけど、何というのでしょうか。トートロジー?撞着語法?知ってるひとコメント欄で教えてね!(コメ稼ぎ)

 

この技法というか修辞というかを読みたくて『嘔吐』を読み始めたわけではないのに、こういう表現に出会えるのが面白かった。問題は、これをパクったと思われそうなことである。言い訳をするともう原稿は書き終わっている。剽窃をしていないのに後から読んだ本の中に似た表現があるとウッ……!ってなる。既にこの世にあるもの以外を作れるとも思わないが、それはそれでウッ……!となる。<吐き気>がやってくる。後発はそう思われても仕方ないし、どうしても弱い。全然関係ないけど土井集合住宅さんの『アルト』ってネタが面白かった。許されんのかこれぇ~~~~!!!?☝☝☝怒

 

2024/02/11 追記

『嘔吐』読了。オチまでちょっと被っちゃってるんだがこれぇ~~~~!!!?☝☝☝怒恐怖恐怖恐怖

 

ロカンタンの元カノのアニーは演劇をやっていた。

「恋に恋するような」という言葉が私は好きだ。
理想に自分が参画しても完璧にことをすすめられないことが事前にわかっているため、参画できないでいる。それよりかは、虚構/演劇調/「完璧」を形作っているものを見てその表面の美味しいところだけを掬い、あたかも理想に参画したと錯覚している方が楽しいし楽だし且つ純度が高いのだ。例として、青春や友達の輪を売りにしているYoutuberグループ、アイドルグループなど。これを見ると過去に友達がいた者は懐古し、いない者は自分史に存在しなかった在り得たかもしれない空想に浸ることが出来るのだ。

しかしアニーは舞台の上にもそんな理想はなかったという。演劇中でも、他の演者と顔を鉢合わせると吹き出しそうになったと語る。アニーはアニーであった。
そしてもう一つ、人間は舞台の上・現実世界隔たりなく、その場に応じた「完璧を作り出さなければならない」義務があるという。アニーは実体験を基にした例を出した。主人公のロカンタンとデートをした際、それもはじめてのキスの際、腿の裏にちくちく刺さる草を20分も我慢しなければならなかった。その場で体勢を直したり痛がったりするのはムードを壊すからだ。

アニーはロカンタンに向かって云い放った。

「それじゃあなたは、ちっともあたしと同じことなんか考えていないわ。自分では何一つやろうともせずに、まわりの物が花束みたいに配置されていないからというので、愚痴をこぼしているだけじゃないの。(後略)」(J-P・サルトル著/鈴木道彦訳, (2010).『嘔吐』, 人文書院, p.252)

 

私は成人式に行ったときを思い出した。

そこで当時付き合っていた元カノに発見され、「写真とろー」とコミュニケーションをとったことがあった。そこで真っ先に思ったのは(あ、そういう感じ)という心情だった。あの時の時間はなかったことになっていて、「何年来に邂逅したクラスメイト」という演劇が始まったのだった。不意に現れたその舞台へ私はドン、と背中を押されて登場し、何事も行ってはいけない言ってはいけない寸劇をこなしたことがあった。最低限の演者としての参画だけをし、私ではなく元カノが望むかたちでの”私”を演じる必要があった。

今でも思い出すということは、多分その時の風景が半ばトラウマとして残っているのだろう。彼女は大人だったということだ。私を貶すわけでもなく、腫物を扱うような視線を向けるでもなく、何事もなかったかのように自然に、一友達として接してきた。私に近寄らないという選択もできただろうが、それを行わなかった。きちんと成人式/私との関係/社会に参画したのだ。かつ、自らが劇場をセッティングするという責任さえ負ってみせた。片や私は、何かをうちたてる責任から逃げているだけだった。

これに限らず、人生において何かを演じる必要がある場面は多い。段々と責任が求められる年齢になっていくなか、私は動き出せば空回りするタイプだった。勝手に私の背中にのしかかってきた”規範”を落とさないように動き、むしろ不自然になった。その恐怖ゆえに、能動的に何かを行う性格から受動的なものに変わった。小さいころは道化としての立ち位置があった。面白い奴であればそれだけで友達は多かった。現に成人式に参加したときの一番の感想としては「キャラをLv.99まで育てるくらい昔やりこんだゲームを、久しぶりに起動した」ときの感覚だった。サブクエスト全部やってんじゃんだった。それほど私の印象はよかった。

 

もう一つトラウマを紹介すると、大学生のころ、私は自治会に参加していた。(人を侍らせたいとか掌握したいからとかではなく、単にそこに面白い奴がいっぱいいた)そこでは他大学との交流も行っていた。

ある日、シンジュクの地下のやべー下品なドゥンドゥン言ってるフロアにて会合があり、私は同じ大学の陽キャの友人Xと参加することになった。私は完全に気圧された。スパンコールドレス着てる女もいるしホストみてぇな男もいるし。萎縮して同じ匂いを醸し出す他大の人を見つけて二人、ずっと料理片手にくっちゃべっていた。こっちは真面目な話してんだから近寄んなオーラを出しつつ。カオスだった。その間、元々陽の属性を持っているXは場を盛り上げ続ける。そこでは縦軸企画が行われていて、いずれビンゴ大会の時間になった。そこでもXは場を盛り上げた。俺は大学祭等催しをする際の、電飾云々の設営費用だったりを親指でビンゴカードをポチポチと開けながら死んだ目で隣の人と話していた記憶がある。いやお前ら、大学の交流しろよ。ぜってーこのあとセックスすることしか考えてねぇじゃん。いや、そっちのほうが大学生としての交流かってやかましいわ。ビンゴカードが一列揃ってしまった暁にはXにあげるつもりだったが、そんな事は無かった。運も幸いにしてこちらを向いていなかった。

悪夢のようなメイルストロームは終わった。「ありがとうございました~!もう二度ときません!」(今日は楽しかったです!)と主催と挨拶を交わし、Xとシンジュクの夜道を歩いた。ワケェ大学生の調子乗ったスーツ姿なのが自分でクソ嫌だった。

その時に私はXに向かって「どうだった?」と訊いた。「面白かったね~!」→「めっちゃ盛り上げてたもんね!」という流れを想定していた。Xは言った。

「クソつまんなかった」

これこそが私のトラウマである。呆気にとられた。Xは社会に参画し主催よりも場を盛り上げて貢献しそれを磨き上げたのにも関わらず本心から行っていたものではなかった。自分を殺してでも場の点数を上げたのだ。今でも指折りの尊敬を感じたエピソードだ。こいつマジでカッコよすぎるって。

「あ、そう……」

その後は二人で焼肉を食べに行った。お腹は空いていなかったが、ちまちまと少量ずつ焼いた肉はあの地下で食べたどの料理よりもおいしかった。余談だがそいつは最近結婚した。結婚式呼んでくれ~~~~ますますご清栄のこととお慶び申し上げますいろいろお世話になりましたくれぐれもご自愛のほど重ね重ねになりますがご結婚おめでとうございます。

 

昔は道化として生きていた私は最近空回りを続けている。

ヒン😭

(参考:https://sup.andyou.jp/tarot/arcana0/

ストリップ見てきた

  • 要旨

ストリップ劇場に行った。
結論から言うと、カンゲキした。めちゃくちゃ面白かった。
低俗なイメージのあったそれはまるで間違ったものだった。
芸術である。センスの尖った、イメージに反して若い、先鋭的な演劇が繰り広げられていた。

 

  • 本文

入口で入場料金を払う。

なんと若ェ衆は割引があるらしい。20代は割引が利くのである。あと女性割りとかもあった。お金を払い、垂れ幕をくぐると、ホールに抜ける。
客層は40~50代男性がメインだと思われた。ちらほら20代の男性・女性もいた。

 

煙草の臭いがする。煙草が鉄と建材に染着いた臭いがする。ゲーセン、カラオケ、そんなような臭い。

 

どんな空気感なのだろう、不文律はあるだろうか、守るべきマナーがわからない、座るのもなんだから端のすみの方に立っていよう。(後方腕組)そう思ってそわそわしているところにアナウンス(滑舌の問題により解読不能)が流れて舞台は暗転した。

 

まず初めにマンウィズが出てきた。

 

そう、マンウィズである。狼の頭をした、人間の身体をした。アレである。女の人の裸が見れると意気込んで鼻息散らして入ったところ、マンウィズが出てきた。
椅子と拳銃とマンウィズ。

 

スーツ姿で椅子にだらけて座り、頭を抱え、皮の手袋の手触りをたしなみ、物憂いに首を振る、煩悶としたマンウィズ。拳銃と手袋と革靴の質感と、統一された色の黒が四肢の先に点在して映える。拳銃をまじまじと見つめ、弾倉を装填し、ずかずかとステージの前へ乗り出し、バンバンと客席に向けて発砲する。マンウィズが。

 

(……え? ……え、ストリップってこんな感じなの……?)

 

大量に浮かぶ疑問符とは裏腹に、私は興奮していた。結論をいうと、一日を通してもこのタイミングがいちばん興奮していたかもしれない。意味が分からないからだ。我々は今、傍若無人な混沌の渦に巻き込まれている。

 

曲が終わると続けざまに次の音楽が流れ、チャプター(?)も遷移する。

 

いずれマンウィズはお面を脱いだ。(脱いじゃうんだ……)曲単位の踊りを終え、また次の曲に移るタイミングでいったん舞台袖に捌ける。次に出たときには衣装が変わっている。

 

中東風の、まさに「踊り子」といったもの。薄いベールが回り、官能的なダンスの途中で下着が消える。一瞬だった。どこに隠し持っていたのかもわからない。流れる音楽の歌詞に「やりたいことをやる」「これが私だ」というようなメッセージ性の強いものが現れると同時に、最後のポーズに入る。会場が拍手をする。

 

終演。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

B R A V O 。

 

どうみても素晴らしい。

 

理解できそうで理解できないし、簡単に理解に及ぶものと考える方が楽しみ方として間違っている。雰囲気の霞だけを食って「おいしかった!」と感想を残すのが私が思ったこのストリップというものの楽しみ方だった。

 

その後の別の演者さんの演目も、テーマが「大正ロマン」「地雷系」「大漁旗」(大漁旗?)などなど、センスが尖っている。(ご本人様が自称している演目名と違っている旨、ご了承ください。)

 

大正ロマン」はハイカラなロングスカートを着て、必要最低限のジャンプのみで構成するダンスを行う。ぴょんぴょんと素朴に雀躍するだけのダンス。「衣装が重い」という難点を利に変換している。むしろ、そのあどけなさを演出する上では、この衣装でなくてはならない。初めに乙女が振り回していた傘も、後半は秘部を隠すために使われる。「傘」の在り方の意味合いが変化する。脱いだ身体を隠すベールも褥を連想させるような、少し近代の和風テイスト。

 

「地雷系」は終始リラックマの人形を持ち、愛でる。キスをしたり抱きしめたり。正面からの子供そのものの愛情の表現は、そのファッションと親和性が高い。

フリッフリのフリルが付いたファッションを脱ぎ、ティアラを被る。ここに、得も言われぬ「こだわり」を感じた。ここからの私は王女様なの、と言わんばかりの決意の戴冠。下着姿にティアラが乗っている。リラックマは何者なのか。恋人……いや、「ピ」か。「推し」か。「何でもない」のか。ティアラを被ったのだから、舞台上の彼女(演者ではない)にとって大切な人なのだろう。

ティアラも何もかも外す。パンツを脱ぐと左手首に巻いた。後に見た演者さんもこれを行っていたため、よくある技法だ、と言われればそれまでだが、しかし「地雷系」だぞ。メンヘラと親和性の高い手首シュシュを暗喩していて、ここでもまた打ちのめされた。

 

そう、テーマが完璧なのだ。

普通に、演劇だ。

 

比較的若い方が「自分」を出し、センスを爆発させている。ストリップダンスの構成要素は主に「曲」と「ダンス」。心情は歌詞や曲調、動き、表情から読み取るしかない。当然ながらすべてを語らない。バックボーンもない。その演者の素性を知らない。だからこそ、素晴らしい。混沌の渦に巻き込まれている。(てゆーかこれ、振付から演出から選曲から累計20Kgはありそうな衣装から運搬から何から全部一人でやってるんか……?)

 

王道のダンスから先鋭的作風までをいくつか見て、おおよその流れは掴めた。

そこで一つ、疑問が生じた。

 

……裸になるの、いるか?

 

世界観構築からの女の裸、いる?……と、一瞬思ってしまった。

めちゃくちゃいい雰囲気で、話の次の展開が気になる……!はい、じゃ、一旦Hシーンはいりまーーーーす。って言われた時のエロゲだ。早送りを長押しして高速で画面が白く点滅したくらいで話の続きを見たい。仮定された有機交流電燈のひとつの白い照明が明滅したくらいで話の続きを見たい。

 

これだけ独自の世界観を、はちきれんばかりのセンスを爆発させて、女の裸に帰着させるの、必要? 

 

でも、きっと違う。世界観センス爆発→裸という緩急がいいのだ。新体操やフィギュアスケートみたいに、決まった項目をクリアしていくことに意味がある。様式美が如く、最後に裸でポーズをクリアしていく。競技と同じく、レギュレーションを踏襲した上で、後はどう個人の味付けで料理するかなのだ。

 

もちろん、裸を経ていかなければならない以上、テーマは「性」なものになると思う。(大漁旗……?)恋物語、歪んだ愛、慈愛、子供っぽい愛情表現、そのような一連のストーリーに沿って、最後には大団円の裸に帰着する。(大漁旗……?)

 

芸術。

社会。客と演者の相互作用。

そして努力。食事制限、スキンケア、体型維持。

 

踊り子って、踊りの才能以外に、先天的に恵まれた体系がないとむずいのでは……?

スタイルがめちゃくちゃいい。身長も高い。ただ全員が全員それというわけではなく、例えば地雷系を演じた方は膝下が短かった。これはむしろ、差別化を図る上で武器だと思う。この人にしかできない「子供」の強さがある。当然肌も綺麗。裏に見える膨大な努力を想像してやまない。

 

演者が数名、演目を終えると、チェキを取る時間が挟まる。

チェキのときは素の演者がでる。マンウィズの人は「冬はいいけど夏はやりたくない。夏はもう一生やらない」と笑いながら愚痴をこぼしていた。地雷系の人も素行は脇を閉めない、若干腰を曲げた女オタクの立ち方でよかった。まんまやん。

 

少し安心した。何も演目が終わって尚、気張っていなくてもいいのだ。

おっかけと思しき人と軽くコミュニケーションを取ったり、猫被った声調と本音が入り混じった返事。そこには社会があった。演者と客の暗黙で成り立つ社会があった。全員、大人だった。地雷系の人は写真を撮る際に普通にパンツを履き忘れていた。まんまやん。

 

・感想

再三言うようだが、世界観すごい。

おじ様方、わかるのか? 流れている曲も、ア・イミョンとか、ヒ・ゲダンとか、電波ソングとか、本当に多種多様だ。それこそ地雷とか、そーゆーのを肌で感じて基盤として身に着けていないとこの芸術は理解できなくないか?(烏滸がましい傲慢)たまに80~90年代の曲が間に挟まるのだが、こういったおじ様方に束の間の憩いを与える媚びソングなんじゃないかと邪推するくらいに、「自分」を表現している選曲だ。確実に、メインの客層が解るものではない。マンコ見たいだけ?

 

演目なんてどうでもよくて、マンコ見れるから来てます。という人がいたとしたら残念だ。でもきっといる。かく言う自分だって最初は「マンコ見れる」から行った。その特色を帯びたダンスは他では類を見ない。「マンコ見れる」という利益は、あまりに大きすぎる。女だからというだけで、それだけで価値になってしまうのは、少し残酷だ。それは「女」以外のものを見てくれないということに繋がる。例を言うと、女というだけで配信を始めて間もなく人気がでて、彼氏が発覚した際には凋落する。なぜなら女だから。

 

ちょっとズレるが、「オフィスビルの受付嬢」というものよりも、ストリップ劇場はまだ残酷じゃない。まだ「性」の基盤の上というだけ、居場所がある。容姿が綺麗だから、というのが主な理由で抜擢される東京の一企業の「オフィスビルの受付嬢」は、かなりグロい。我々が思う「普通」の社会上でも、綺麗に粉飾された男性の薄汚いリビドーが通念にあるのだ。どれだけ端麗に整ったスーツの下にも勃起が潜んでいる。

 

ストリップ劇場はそんな男性側の忸怩たる性欲も、女性側の表現も、真正面から解放してくれる場なのだと思う。

 

メイン客層に合わせた、はっきりいって古臭い、レトロな「エロ」を表現する演目をするのかと思っていたが、それは大間違いだった。

みんな、「我」を表現しにしまくっている。恐ろしいくらいに輝かしい。表現が刺さるターゲット層は確実に20代なのだが、50代に眼もくれず演者が好きなことを一生懸命にやっている。向き合い方が素敵すぎる。表現に対する内向を上手く乗りこなしている。かつ、ファンサ(チェキ等の外交)もしっかりと行っている。尊敬ものだ。

 

誰がこの演目を理解できるんだ? でも、そこが問題じゃないことを彼女たちは知っている。どう思われるかどうかは問題じゃない。……本当か。本当にそうかわからない。況してや、人目にも白日にも付かないアングラ舞台だ。でもこの暗中で芽生えた脆い強さを信じたい。

 

今回を通して一番思ったのは、20代こそ来るべきだ。

一年を振り返って/『廿』所感

一年を振り返って

こんにちは。蝦蟇みです。

2023年も終わりますね。

 

一年を振り返ってみると、多分よく走ったんだと思います。全力ではないにしろ、絶対にバテないようにコンスタントに走ってた感覚です。実は勤めていた会社を辞めて一年間『プルキニエ』を書いていました。

 

参考:

note.com

 

冬コミで頒布する予定でしたが、予定よりも早い9ヶ月で執筆が終わったため、京都の秘封オンリーイベント「科学世紀のカフェテラス」に申し込みました。やはりこちらが一番記憶に残っています。夜中に東名ぶっ放して、イベント前日の朝に京都へ着き、観光するぞー!と意気込んだ矢先に岡崎公園で爆睡しました。事、切れました。

 

煮詰まっていました。層が。オンリーイベント参加者の鋭い眼光と”熱”を感じました。

正直にいうと自分の存在が外部に影響を及ぼすのは怖くて仕方なかったんですが、色々な方と新刊交換を出来てものすごく楽しかったです。その時に”交換した同人誌の価格を知らない”というのが自分にとっての密かな優越です。農家がお米の値段しらないみたいな。

 

新刊は完売しました。秋例大祭用に在庫をとっておいたんですが、それも持ってくれば良かったと思いました。なんだか泣きそうになりました。

自分、天邪鬼な性格なのかわからんのですが、完売をした時に謎にブルーになるようでした。自分が認められる(?)感覚が謎だからでしょうか、前にもこれを抱きましたが、未だ言語化できていません。

 

会場の京都パルスプラザからはバスが出ていましたが、なんだか気持ちが収まらないので最寄り駅である竹田駅まで歩きました。歩いている方は自分含め少なかったです。9月でしたがまだ暑く、シャツが背中に張り付きました。その後は四条で降り繁栄会商店街をめぐっていた友人と合流しました。「どうだった?」「俺の分の新刊ある?」

「完売した」

「おおーすげー」「おめでとう」泣きそうでした。というより、感情がめちゃくちゃになりました。「ありがとう」と言い、すなおに喜ぶにも、泣くにも至らず朗らかな表情を虚飾していました。(これは後日聞いたところ、普通に感情がめちゃくちゃになっていることを見破られていました。そこでようやく笑えました)いち友人としてその場に立ちました。夜には伏見稲荷ダッシュで登頂しました。汗だくでした。

 

帰宅後、祖父母の家にお土産の阿闍梨餅をわたしに行きました。泣きました。泣きながら車を運転していました。なんかゴールが何かもわからないのに奔走してました。一人の空間になってはじめて鬱積した思いがブチ撒けられました。

 

飛んで秋例大祭、好きな作家さん(便宜上「作家」と形容させていただきます。)とお隣のスペースになり、色々お話させていただきました。かくいう私もこの作家さんの作品を見て小説を作り始めた人間でした。端的に言えば「あこがれの人」です。

帰りの電車で放心しました。行きの電車の道程の1.5倍くらいかけて帰りました(放心して乗り換えをミスった)。ああ、なんか全クリ……?全クリした……?俺これから何やればいいんだ……?長篇に挑戦し、拙いながらも全力を出した愛ある作品を出した結末に私の小説執筆における始点となった人とお話ができて、なんだか夢現でした。死んだ後に人生のリザルトを談笑している気分でした。

 

何日か経ち、あたまのなかには『Phoenix』が流れていました。

youtu.be

就活シーズンの時にもあたまのなかを渦巻いていた『Phoenix』のフレーズがまたリバーブし始めました。「well...kid...What you gonna do now?」(じゃあ……これから何すんの?)

そして多分、その答えとしては変わりません。なんかその時に適当に作りたいものを作っていきます。自分は自分の作品を「ハムスターのうんこ」だと思っています。これを言うと「え、お前の作品うんこレベルってこと?」と言われますが、謙遜でいえばそうです。本意をいうと”有難みを感じない”です。歩いていたらプリっとおしりからなんか生まれた程度のものの認識です。歩いていたらプリっとおしりからなんか生まれた程度の能力です。されど、愛はあります。

 

最初こそお金を取ってもいいものか、他人様に見せられる程度か、金銭や毀誉褒貶を受け取ったらそれの承認を求めて私はものづくりをしてしまわないか、と心配をしていました。アンダーマイニング効果ってやつです。しかし、結果は杞憂でした。私の内向性はここでは利に働いたようです笑 この一年で先に挙げた成功体験を経験し、自信をもってその恐怖を超克できたように思えます。

 

さて、綺麗な作風(当社比)である『プルキニエ』の執筆を経験できたので、次は穢いもん/闇を作る後ろ楯を得ました。『廿』はその先駆けとなり、同時に抽象的な作風です。また模索期間に戻ります。また何年か、何ヶ月かしたら全力を作ると思います。この一年に限らず、感想をくださった方、本当にありがとうございます。励みになります。

『廿』所感


『クリスティーヌNo.9』という紅茶が美味しく、その一閃からインスパイアを得たのと、起承転結の「承」っていらなくね? という提起から生まれた本です。ゆえに、あまあまで、ピークのとこだけを意図して書き出したオムニバスSSみたいな本になっています。

上にあげた紅茶は埼玉県草加市にある「オクダサボウ」さんにて秋限定で飲めるので、ご興味がございましたら、ぜひ。

 

私の友人(大学時代、生活費をコンテストの懸賞金で賄っていたガジェット系のクリエイター)がいつか言っていた「批判でしか前にすすめない」という言葉を、ときたま思い出します。当人は自虐的にその言葉を使っていましたが、前回の経験/作風を踏まえてそのアンチテーゼを使い新たなものをこしらえるというのは、退廃的な過去の使い方ではないと私は思います。かくいう私もそれでしか前へ進んでいません。

 

今回もその了見でいっています。テーマは「推敲なし」「断片的」です。

前作『プルキニエ』が理路整然、ロジックつめつめだったのに対して、今作『廿』はロジックの一切が抜きの、感覚的な、やっぱり情緒MAXの本っていいなあ本です。右脳だけで書きました。改めて戻ってきた感じです。やはり、するする書けて、するする読めて、いいこと尽くしだ!

 

推敲をしないというのはその場本来のエネルギー、持ち味があります。妄想というものはこちらのイメージが強いです。脈絡なく浮かぶ視覚情報をそのまま書くため、楽です。詩、というか短編、というか。ともあれそのカオス具合を、とってつけた数字とそれにまつわる海外の慣用句、といった表面上のコンセプトによって薄く装飾したというだけのものになります。実験的な作品なので、ぶっちゃけ何書いたか覚えてません。怖ぇ^~。

 

時系列も、物語として見たときのヤマもオチもバラバラです。っていうか、ほぼほぼヤマです。甘さ、甘さ、甘さ……です。夢みたいに脈絡なく訪れる情報の奔流、というと聞こえはいいですね。この思想は『幸福論』と『ハムレット』が根幹となっています。

 

まさにこの本を書いている真っ最中に、アランの『幸福論』という本に出会いました。こちらも本文が脈絡なくランダムに、無造作に散りばめるようにして書かれている散文本のため(「プロポ Propos」という形式らしいです)、こういう方式をとっても別にいいのだと、少し気が楽になりました。

 

それと、メリーがたまに言ってるキザな台詞は『ハムレット』からの引用です。『ハムレット』の主人公であるハムレットは全編を通して断片的な人格像を描かれます。このペルソナが画一化されていない性格は現実の人間そのものであり、たといフィクションにおいても私はこういう立場が好きなため、本作もそのエッセンスを尊ぶような作りになっています。断片的に、機嫌に振り回されるように、ですね。

 

『甘美な死骸』というシュルレアリスムの絵における画法があるそうです。これ、おもしろいなーって思ったのも必然で、私は昔見たVIPの「今コピーしてるやつ貼ってけ」スレが好きでした。そこから人間の集合的無意識とか断片的な共通情報を見て面白がっていたのかもしれません。完成品より草案の方が面白いってこと、ありますでしょうか、断片的であいまいな方が穴の開いたところにより面白い何かが滑り込みますものね。今回はそんなような”面白さ”を読者に担保させる形ですが、そんな甘えを許さないものを次回には作ろうと思います。

 

以上、はやくちおたくしてしまいましたがこんな感じです。

C103にて頒布する『廿』を完成させたのち、その1.5倍くらいの原稿がもう手元には溜っています。最近創作意欲が高いです。先日、友人の通う教室の絵画展覧会に行ったとき、素敵に気にいった絵がありました。それは抽象画で、作者は八十歳のおばあちゃんでした。おばあちゃんは言います、「老人は抽象画が上手いんですよ。死が近いから」

無職としての死が近い今、めちゃくちゃ人生楽しいです。珍しく人生に長調が流れています。最期に創作意欲が爆発しています。死ぬときに勃起が止まらないみたいなやつです。[要出典]

その次作原稿と、2024年5月3日の第21回博麗神社例大祭にて頒布予定のうずみびさん@bankedfireXXX主催の合同誌『東方絵画パロ合同』にもこっそり参加させていただいています。重ね重ねになりますが、私の作品を手に取って頂いている方、本当に有難いです。いつもありがとうございます。言っている意味がわかるよな?(圧)