一年を振り返って/『廿』所感

一年を振り返って

こんにちは。蝦蟇みです。

2023年も終わりますね。

 

一年を振り返ってみると、多分よく走ったんだと思います。全力ではないにしろ、絶対にバテないようにコンスタントに走ってた感覚です。実は勤めていた会社を辞めて一年間『プルキニエ』を書いていました。

 

参考:

note.com

 

冬コミで頒布する予定でしたが、予定よりも早い9ヶ月で執筆が終わったため、京都の秘封オンリーイベント「科学世紀のカフェテラス」に申し込みました。やはりこちらが一番記憶に残っています。夜中に東名ぶっ放して、イベント前日の朝に京都へ着き、観光するぞー!と意気込んだ矢先に岡崎公園で爆睡しました。事、切れました。

 

煮詰まっていました。層が。オンリーイベント参加者の鋭い眼光と”熱”を感じました。

正直にいうと自分の存在が外部に影響を及ぼすのは怖くて仕方なかったんですが、色々な方と新刊交換を出来てものすごく楽しかったです。その時に”交換した同人誌の価格を知らない”というのが自分にとっての密かな優越です。農家がお米の値段しらないみたいな。

 

新刊は完売しました。秋例大祭用に在庫をとっておいたんですが、それも持ってくれば良かったと思いました。なんだか泣きそうになりました。

自分、天邪鬼な性格なのかわからんのですが、完売をした時に謎にブルーになるようでした。自分が認められる(?)感覚が謎だからでしょうか、前にもこれを抱きましたが、未だ言語化できていません。

 

会場の京都パルスプラザからはバスが出ていましたが、なんだか気持ちが収まらないので最寄り駅である竹田駅まで歩きました。歩いている方は自分含め少なかったです。9月でしたがまだ暑く、シャツが背中に張り付きました。その後は四条で降り繁栄会商店街をめぐっていた友人と合流しました。「どうだった?」「俺の分の新刊ある?」

「完売した」

「おおーすげー」「おめでとう」泣きそうでした。というより、感情がめちゃくちゃになりました。「ありがとう」と言い、すなおに喜ぶにも、泣くにも至らず朗らかな表情を虚飾していました。(これは後日聞いたところ、普通に感情がめちゃくちゃになっていることを見破られていました。そこでようやく笑えました)いち友人としてその場に立ちました。夜には伏見稲荷ダッシュで登頂しました。汗だくでした。

 

帰宅後、祖父母の家にお土産の阿闍梨餅をわたしに行きました。泣きました。泣きながら車を運転していました。なんかゴールが何かもわからないのに奔走してました。一人の空間になってはじめて鬱積した思いがブチ撒けられました。

 

飛んで秋例大祭、好きな作家さん(便宜上「作家」と形容させていただきます。)とお隣のスペースになり、色々お話させていただきました。かくいう私もこの作家さんの作品を見て小説を作り始めた人間でした。端的に言えば「あこがれの人」です。

帰りの電車で放心しました。行きの電車の道程の1.5倍くらいかけて帰りました(放心して乗り換えをミスった)。ああ、なんか全クリ……?全クリした……?俺これから何やればいいんだ……?長篇に挑戦し、拙いながらも全力を出した愛ある作品を出した結末に私の小説執筆における始点となった人とお話ができて、なんだか夢現でした。死んだ後に人生のリザルトを談笑している気分でした。

 

何日か経ち、あたまのなかには『Phoenix』が流れていました。

youtu.be

就活シーズンの時にもあたまのなかを渦巻いていた『Phoenix』のフレーズがまたリバーブし始めました。「well...kid...What you gonna do now?」(じゃあ……これから何すんの?)

そして多分、その答えとしては変わりません。なんかその時に適当に作りたいものを作っていきます。自分は自分の作品を「ハムスターのうんこ」だと思っています。これを言うと「え、お前の作品うんこレベルってこと?」と言われますが、謙遜でいえばそうです。本意をいうと”有難みを感じない”です。歩いていたらプリっとおしりからなんか生まれた程度のものの認識です。歩いていたらプリっとおしりからなんか生まれた程度の能力です。されど、愛はあります。

 

最初こそお金を取ってもいいものか、他人様に見せられる程度か、金銭や毀誉褒貶を受け取ったらそれの承認を求めて私はものづくりをしてしまわないか、と心配をしていました。アンダーマイニング効果ってやつです。しかし、結果は杞憂でした。私の内向性はここでは利に働いたようです笑 この一年で先に挙げた成功体験を経験し、自信をもってその恐怖を超克できたように思えます。

 

さて、綺麗な作風(当社比)である『プルキニエ』の執筆を経験できたので、次は穢いもん/闇を作る後ろ楯を得ました。『廿』はその先駆けとなり、同時に抽象的な作風です。また模索期間に戻ります。また何年か、何ヶ月かしたら全力を作ると思います。この一年に限らず、感想をくださった方、本当にありがとうございます。励みになります。

『廿』所感


『クリスティーヌNo.9』という紅茶が美味しく、その一閃からインスパイアを得たのと、起承転結の「承」っていらなくね? という提起から生まれた本です。ゆえに、あまあまで、ピークのとこだけを意図して書き出したオムニバスSSみたいな本になっています。

上にあげた紅茶は埼玉県草加市にある「オクダサボウ」さんにて秋限定で飲めるので、ご興味がございましたら、ぜひ。

 

私の友人(大学時代、生活費をコンテストの懸賞金で賄っていたガジェット系のクリエイター)がいつか言っていた「批判でしか前にすすめない」という言葉を、ときたま思い出します。当人は自虐的にその言葉を使っていましたが、前回の経験/作風を踏まえてそのアンチテーゼを使い新たなものをこしらえるというのは、退廃的な過去の使い方ではないと私は思います。かくいう私もそれでしか前へ進んでいません。

 

今回もその了見でいっています。テーマは「推敲なし」「断片的」です。

前作『プルキニエ』が理路整然、ロジックつめつめだったのに対して、今作『廿』はロジックの一切が抜きの、感覚的な、やっぱり情緒MAXの本っていいなあ本です。右脳だけで書きました。改めて戻ってきた感じです。やはり、するする書けて、するする読めて、いいこと尽くしだ!

 

推敲をしないというのはその場本来のエネルギー、持ち味があります。妄想というものはこちらのイメージが強いです。脈絡なく浮かぶ視覚情報をそのまま書くため、楽です。詩、というか短編、というか。ともあれそのカオス具合を、とってつけた数字とそれにまつわる海外の慣用句、といった表面上のコンセプトによって薄く装飾したというだけのものになります。実験的な作品なので、ぶっちゃけ何書いたか覚えてません。怖ぇ^~。

 

時系列も、物語として見たときのヤマもオチもバラバラです。っていうか、ほぼほぼヤマです。甘さ、甘さ、甘さ……です。夢みたいに脈絡なく訪れる情報の奔流、というと聞こえはいいですね。この思想は『幸福論』と『ハムレット』が根幹となっています。

 

まさにこの本を書いている真っ最中に、アランの『幸福論』という本に出会いました。こちらも本文が脈絡なくランダムに、無造作に散りばめるようにして書かれている散文本のため(「プロポ Propos」という形式らしいです)、こういう方式をとっても別にいいのだと、少し気が楽になりました。

 

それと、メリーがたまに言ってるキザな台詞は『ハムレット』からの引用です。『ハムレット』の主人公であるハムレットは全編を通して断片的な人格像を描かれます。このペルソナが画一化されていない性格は現実の人間そのものであり、たといフィクションにおいても私はこういう立場が好きなため、本作もそのエッセンスを尊ぶような作りになっています。断片的に、機嫌に振り回されるように、ですね。

 

『甘美な死骸』というシュルレアリスムの絵における画法があるそうです。これ、おもしろいなーって思ったのも必然で、私は昔見たVIPの「今コピーしてるやつ貼ってけ」スレが好きでした。そこから人間の集合的無意識とか断片的な共通情報を見て面白がっていたのかもしれません。完成品より草案の方が面白いってこと、ありますでしょうか、断片的であいまいな方が穴の開いたところにより面白い何かが滑り込みますものね。今回はそんなような”面白さ”を読者に担保させる形ですが、そんな甘えを許さないものを次回には作ろうと思います。

 

以上、はやくちおたくしてしまいましたがこんな感じです。

C103にて頒布する『廿』を完成させたのち、その1.5倍くらいの原稿がもう手元には溜っています。最近創作意欲が高いです。先日、友人の通う教室の絵画展覧会に行ったとき、素敵に気にいった絵がありました。それは抽象画で、作者は八十歳のおばあちゃんでした。おばあちゃんは言います、「老人は抽象画が上手いんですよ。死が近いから」

無職としての死が近い今、めちゃくちゃ人生楽しいです。珍しく人生に長調が流れています。最期に創作意欲が爆発しています。死ぬときに勃起が止まらないみたいなやつです。[要出典]

その次作原稿と、2024年5月3日の第21回博麗神社例大祭にて頒布予定のうずみびさん@bankedfireXXX主催の合同誌『東方絵画パロ合同』にもこっそり参加させていただいています。重ね重ねになりますが、私の作品を手に取って頂いている方、本当に有難いです。いつもありがとうございます。言っている意味がわかるよな?(圧)