ストリップ見てきた

  • 要旨

ストリップ劇場に行った。
結論から言うと、カンゲキした。めちゃくちゃ面白かった。
低俗なイメージのあったそれはまるで間違ったものだった。
芸術である。センスの尖った、イメージに反して若い、先鋭的な演劇が繰り広げられていた。

 

  • 本文

入口で入場料金を払う。

なんと若ェ衆は割引があるらしい。20代は割引が利くのである。あと女性割りとかもあった。お金を払い、垂れ幕をくぐると、ホールに抜ける。
客層は40~50代男性がメインだと思われた。ちらほら20代の男性・女性もいた。

 

煙草の臭いがする。煙草が鉄と建材に染着いた臭いがする。ゲーセン、カラオケ、そんなような臭い。

 

どんな空気感なのだろう、不文律はあるだろうか、守るべきマナーがわからない、座るのもなんだから端のすみの方に立っていよう。(後方腕組)そう思ってそわそわしているところにアナウンス(滑舌の問題により解読不能)が流れて舞台は暗転した。

 

まず初めにマンウィズが出てきた。

 

そう、マンウィズである。狼の頭をした、人間の身体をした。アレである。女の人の裸が見れると意気込んで鼻息散らして入ったところ、マンウィズが出てきた。
椅子と拳銃とマンウィズ。

 

スーツ姿で椅子にだらけて座り、頭を抱え、皮の手袋の手触りをたしなみ、物憂いに首を振る、煩悶としたマンウィズ。拳銃と手袋と革靴の質感と、統一された色の黒が四肢の先に点在して映える。拳銃をまじまじと見つめ、弾倉を装填し、ずかずかとステージの前へ乗り出し、バンバンと客席に向けて発砲する。マンウィズが。

 

(……え? ……え、ストリップってこんな感じなの……?)

 

大量に浮かぶ疑問符とは裏腹に、私は興奮していた。結論をいうと、一日を通してもこのタイミングがいちばん興奮していたかもしれない。意味が分からないからだ。我々は今、傍若無人な混沌の渦に巻き込まれている。

 

曲が終わると続けざまに次の音楽が流れ、チャプター(?)も遷移する。

 

いずれマンウィズはお面を脱いだ。(脱いじゃうんだ……)曲単位の踊りを終え、また次の曲に移るタイミングでいったん舞台袖に捌ける。次に出たときには衣装が変わっている。

 

中東風の、まさに「踊り子」といったもの。薄いベールが回り、官能的なダンスの途中で下着が消える。一瞬だった。どこに隠し持っていたのかもわからない。流れる音楽の歌詞に「やりたいことをやる」「これが私だ」というようなメッセージ性の強いものが現れると同時に、最後のポーズに入る。会場が拍手をする。

 

終演。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

B R A V O 。

 

どうみても素晴らしい。

 

理解できそうで理解できないし、簡単に理解に及ぶものと考える方が楽しみ方として間違っている。雰囲気の霞だけを食って「おいしかった!」と感想を残すのが私が思ったこのストリップというものの楽しみ方だった。

 

その後の別の演者さんの演目も、テーマが「大正ロマン」「地雷系」「大漁旗」(大漁旗?)などなど、センスが尖っている。(ご本人様が自称している演目名と違っている旨、ご了承ください。)

 

大正ロマン」はハイカラなロングスカートを着て、必要最低限のジャンプのみで構成するダンスを行う。ぴょんぴょんと素朴に雀躍するだけのダンス。「衣装が重い」という難点を利に変換している。むしろ、そのあどけなさを演出する上では、この衣装でなくてはならない。初めに乙女が振り回していた傘も、後半は秘部を隠すために使われる。「傘」の在り方の意味合いが変化する。脱いだ身体を隠すベールも褥を連想させるような、少し近代の和風テイスト。

 

「地雷系」は終始リラックマの人形を持ち、愛でる。キスをしたり抱きしめたり。正面からの子供そのものの愛情の表現は、そのファッションと親和性が高い。

フリッフリのフリルが付いたファッションを脱ぎ、ティアラを被る。ここに、得も言われぬ「こだわり」を感じた。ここからの私は王女様なの、と言わんばかりの決意の戴冠。下着姿にティアラが乗っている。リラックマは何者なのか。恋人……いや、「ピ」か。「推し」か。「何でもない」のか。ティアラを被ったのだから、舞台上の彼女(演者ではない)にとって大切な人なのだろう。

ティアラも何もかも外す。パンツを脱ぐと左手首に巻いた。後に見た演者さんもこれを行っていたため、よくある技法だ、と言われればそれまでだが、しかし「地雷系」だぞ。メンヘラと親和性の高い手首シュシュを暗喩していて、ここでもまた打ちのめされた。

 

そう、テーマが完璧なのだ。

普通に、演劇だ。

 

比較的若い方が「自分」を出し、センスを爆発させている。ストリップダンスの構成要素は主に「曲」と「ダンス」。心情は歌詞や曲調、動き、表情から読み取るしかない。当然ながらすべてを語らない。バックボーンもない。その演者の素性を知らない。だからこそ、素晴らしい。混沌の渦に巻き込まれている。(てゆーかこれ、振付から演出から選曲から累計20Kgはありそうな衣装から運搬から何から全部一人でやってるんか……?)

 

王道のダンスから先鋭的作風までをいくつか見て、おおよその流れは掴めた。

そこで一つ、疑問が生じた。

 

……裸になるの、いるか?

 

世界観構築からの女の裸、いる?……と、一瞬思ってしまった。

めちゃくちゃいい雰囲気で、話の次の展開が気になる……!はい、じゃ、一旦Hシーンはいりまーーーーす。って言われた時のエロゲだ。早送りを長押しして高速で画面が白く点滅したくらいで話の続きを見たい。仮定された有機交流電燈のひとつの白い照明が明滅したくらいで話の続きを見たい。

 

これだけ独自の世界観を、はちきれんばかりのセンスを爆発させて、女の裸に帰着させるの、必要? 

 

でも、きっと違う。世界観センス爆発→裸という緩急がいいのだ。新体操やフィギュアスケートみたいに、決まった項目をクリアしていくことに意味がある。様式美が如く、最後に裸でポーズをクリアしていく。競技と同じく、レギュレーションを踏襲した上で、後はどう個人の味付けで料理するかなのだ。

 

もちろん、裸を経ていかなければならない以上、テーマは「性」なものになると思う。(大漁旗……?)恋物語、歪んだ愛、慈愛、子供っぽい愛情表現、そのような一連のストーリーに沿って、最後には大団円の裸に帰着する。(大漁旗……?)

 

芸術。

社会。客と演者の相互作用。

そして努力。食事制限、スキンケア、体型維持。

 

踊り子って、踊りの才能以外に、先天的に恵まれた体系がないとむずいのでは……?

スタイルがめちゃくちゃいい。身長も高い。ただ全員が全員それというわけではなく、例えば地雷系を演じた方は膝下が短かった。これはむしろ、差別化を図る上で武器だと思う。この人にしかできない「子供」の強さがある。当然肌も綺麗。裏に見える膨大な努力を想像してやまない。

 

演者が数名、演目を終えると、チェキを取る時間が挟まる。

チェキのときは素の演者がでる。マンウィズの人は「冬はいいけど夏はやりたくない。夏はもう一生やらない」と笑いながら愚痴をこぼしていた。地雷系の人も素行は脇を閉めない、若干腰を曲げた女オタクの立ち方でよかった。まんまやん。

 

少し安心した。何も演目が終わって尚、気張っていなくてもいいのだ。

おっかけと思しき人と軽くコミュニケーションを取ったり、猫被った声調と本音が入り混じった返事。そこには社会があった。演者と客の暗黙で成り立つ社会があった。全員、大人だった。地雷系の人は写真を撮る際に普通にパンツを履き忘れていた。まんまやん。

 

・感想

再三言うようだが、世界観すごい。

おじ様方、わかるのか? 流れている曲も、ア・イミョンとか、ヒ・ゲダンとか、電波ソングとか、本当に多種多様だ。それこそ地雷とか、そーゆーのを肌で感じて基盤として身に着けていないとこの芸術は理解できなくないか?(烏滸がましい傲慢)たまに80~90年代の曲が間に挟まるのだが、こういったおじ様方に束の間の憩いを与える媚びソングなんじゃないかと邪推するくらいに、「自分」を表現している選曲だ。確実に、メインの客層が解るものではない。マンコ見たいだけ?

 

演目なんてどうでもよくて、マンコ見れるから来てます。という人がいたとしたら残念だ。でもきっといる。かく言う自分だって最初は「マンコ見れる」から行った。その特色を帯びたダンスは他では類を見ない。「マンコ見れる」という利益は、あまりに大きすぎる。女だからというだけで、それだけで価値になってしまうのは、少し残酷だ。それは「女」以外のものを見てくれないということに繋がる。例を言うと、女というだけで配信を始めて間もなく人気がでて、彼氏が発覚した際には凋落する。なぜなら女だから。

 

ちょっとズレるが、「オフィスビルの受付嬢」というものよりも、ストリップ劇場はまだ残酷じゃない。まだ「性」の基盤の上というだけ、居場所がある。容姿が綺麗だから、というのが主な理由で抜擢される東京の一企業の「オフィスビルの受付嬢」は、かなりグロい。我々が思う「普通」の社会上でも、綺麗に粉飾された男性の薄汚いリビドーが通念にあるのだ。どれだけ端麗に整ったスーツの下にも勃起が潜んでいる。

 

ストリップ劇場はそんな男性側の忸怩たる性欲も、女性側の表現も、真正面から解放してくれる場なのだと思う。

 

メイン客層に合わせた、はっきりいって古臭い、レトロな「エロ」を表現する演目をするのかと思っていたが、それは大間違いだった。

みんな、「我」を表現しにしまくっている。恐ろしいくらいに輝かしい。表現が刺さるターゲット層は確実に20代なのだが、50代に眼もくれず演者が好きなことを一生懸命にやっている。向き合い方が素敵すぎる。表現に対する内向を上手く乗りこなしている。かつ、ファンサ(チェキ等の外交)もしっかりと行っている。尊敬ものだ。

 

誰がこの演目を理解できるんだ? でも、そこが問題じゃないことを彼女たちは知っている。どう思われるかどうかは問題じゃない。……本当か。本当にそうかわからない。況してや、人目にも白日にも付かないアングラ舞台だ。でもこの暗中で芽生えた脆い強さを信じたい。

 

今回を通して一番思ったのは、20代こそ来るべきだ。